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認知症の妻の介護でみえたこと−介護家族と医師の視点から その後 vol.11 どう生きるか、どう死ぬか

2015-12-07

認知症の妻との介護と生活は足かけ8年になり、転居して1年8ヵ月です。妻の認知機能障害の程度は変わりなく、これに伴う精神状態はいつも混乱しているわけでなく、穏やかなときもあり、笑顔を見せるときもあります。しかし多くの時間は、混乱と不安のなかで暮らしているようです。

2つの思いの間で揺れ動く感情

妻が考え込んだり、落ち込んだり、怒ったりすることも稀ではありません。

私の作った料理を美味しいとも不味いとも言わないで、ただもくもくと食べています。自分が先に食べ終わると、私の分まで要求することもあります。尿がいっぱい溜まった紙パンツを気にせず脱ごうともしません。昼となく夜となく開かない玄関の鉄のドアを、開けようとして1、2時間過ごすこともあります。

こうした変わり果てた妻の姿を日々みていると悲しくも情けなくなり、妻の命を絶つことを考えることもあるのです。しかし笑顔を見るとその思いは消えてしまいます。二つの思いに揺れ動く私が居るのです。こうした私の気持ちも、転居で変わったというわけではありません。

転居前

転居前、介護を始めてからのことをある雑誌に連載で書きました。その最終回の副題が「妻の介護を続けて思うこと」で、その一部を少し長いですが「転居前」として以下に転記します(注1)。

夫の私を他人と思う、断片的なコミュニケーション、感情の激しい起伏、「家に帰る」と外出しようとする、尿や便の失禁、しかもそれを気にしない。それらの介護は容易ではありませんが、それ以上に私にとって辛いのは、こうした変わり果てた妻の姿を毎日見ることです。悲しく、情けなくもなります。同時に、本人は何を思って生きているのだろうかとしばしば考えたりします。

妻の思いは、表情や言動から推測するしかありませんが、「何もわからない」「できない」と落ち込んで泣いたり、あるいは自分や周囲にまったく無関心なことも少なくありません。記憶だけでなく感情も断片的で、さまざまな思いが妻のなかで現れては消え、何の脈絡もなく流れてゆく世界に生きているようにも思えます。とらえどころのない心的世界に生きていると思われる妻ですが、もし自分の姿を客観的に見ることができるのであれば、どう思うのだろう、と考えることもあります。

発病前までの妻の思いからすると、それは「悔しい」の一言ではないかとも思います。50歳代半ばで脳炎による軽くはなく治らない認知症になった姿を見て、まだ生きることを楽しみたい人生が遮断され、一人ではどうすることもできない人間として生き続けることへの悔しさを抱くのではないか。意思表示ができるのであれば、「尊厳死」を願うかもしれないとも思います。

しかし、こうしたことについて発病前に妻と話したこともなく、「認知症になったら死んでもよい」などの言葉を聞いたこともありません。私自身が長く認知症にかかわり、妻も認知症の理解を深めてきたので、認知症=「なりたくない病気」=「死んでもよい」といった発想はありませんでした。とはいえ、もし病気が治り現在の姿を知ったら、「嫌だ、悔しい、生きたくない」と思うに違いないでしょう。このように推測する妻の思いが私の日々の介護に重くのしかかります。しかし、思いを確認することもできず、どうすることもできません。

認知症の妻の介護を躊躇したり、つまらないと思うことはありませんが、もとになった辺縁系脳炎の原因を私がつくったのではないかという思いを抱くことがあります。最終的に現在の病名は非ヘルペス性辺縁系脳炎です。原因は不明ですが自己免疫疾患のひとつとして免疫系の障害によるとの見方もあります。

妻はもともと身体が丈夫ではなく、更年期も重なり「疲れた」と寝込むことがありました。発病前に、妻と台湾で開催された国際アルツハイマー病協会の国際会議に参加しましたが、妻はあまり乗り気ではなく、無理矢理連れて行ったようなところがありました。帰国後も「疲れた、疲れた」と言い、2〜3週間後に発病しました。妻に無理をさせてこの病気を起こしやすい状態に追いやったのではないかとの思いがあるのです。

確かに、結婚以来、私のやり方で何度かの転勤、転居を重ね、妻には多くの負担をかけてきました。さらに、妻との些細なことでなかば音信不通となり結婚して子供もいる一人娘のことや、妻自身も一人娘で福島県の山奥に住む年老いた両親のことも心配だったのでしょう。こうした積み重ねの結果が今の病気の原因のひとつになったのではないかと、自責の念を抱くこともあります。

妻の認知症が治りそうにはないとの判断から、仕事を辞めて介護に専念することへの決断は、それほど難しくはありませんでした。一つは、医師としての仕事への執着も少なく、仕事を続けなければならない理由もなかったからです。医師になって約40年、主に老年科医として医療に従事し、できなかったこともありましたが、それなりの充足感があり、今後の目標や意義が曖昧となった時期でもありました。また経済的な裏づけがなければ簡単に仕事を辞めるわけにいきませんが、かなり減収するものの生活できないことはない年金収入と預貯金があり、辞めることができたのです。

幸い、認知症に関わってきたことで、介護は私には臨床的なことを加味した日常生活そのものです。妻の介護もりっぱな仕事だと思っています。医師として医療に従事すること、妻を介護することも、それぞれ意味のある生き方だと思います。

もっともこうした割り切りができないまま在宅介護を強いられる人も少なくありません。それは、介護者にも介護を受ける人にとっても望ましいことではなく、公的支援が必要なことは言うまでもありません。

楽しいこともあれば嫌なこともある妻への介護を中心にした生活を始めて、生きることの意味を改めて考えさせられたり、障害者をかかえる家族への思いが深くなったのではないかと思います。

私は、医師として脳血管障害や認知症など心身の障害をもつ高齢者を診る機会が多く、その家族の介護も垣間見てきました。交通事故で「植物状態」になった30歳代の息子さんを狭い家で介護している高齢の母親がいました。「認知症の人と家族の会」では、介護保険のない時代に認知症のため入院・入所を断られ続けながら10 年以上も80歳代の年老いた配偶者を介護した男性もいました。

この日本には乳幼児から100歳を超える高齢者まで、先天性盲聾、ダウン症、統合失調症、「引きこもり」、高次脳機能障害など、さまざまな疾患や障害を持つ人を支えながらともに生活している多くの家族がいますが、そうした人たちへの思いや生活の姿への想像力が広がったように思います。こうした家族らの介護の喜びと悲しさ、そして日々の細かいことに気づくようになったようです。

往診でも知った疾患ですが、筋萎縮性側索硬化症の、私と同世代の男性がテレビで紹介されると、本人の身体的、精神的な辛さと共に、介護する配偶者にも思いが及びます。買い物は、痰の吸引は、排泄の世話や着替えは、夜は何度も起こされないか……とありありと想像できるのです。

古い記憶が断片化し、新しい記憶もすぐに消えてコミュニケーションも一方的になってしまった妻を、妻にとっては夫と認識することができないこともある私が、介護することの辛さや虚しさを感じることがあります。

妻の病気は進行性ではなく、3年前の発病時と基本的に変わりません。中核症状である記憶障害は良くも悪くもなっていませんが、感情の起伏や「家に帰る」と言うなどのBPSD(認知症の行動心理症状)の頻度は少なくなっています。もちろん、とても明るく過ごす日もあれば、一日中「わーわー」と意味不明なことを言いながら落ち着かない日もあります。

私への感謝の気持ちを表わすことはほとんどありません。毎日同じ介護を繰り返してきましたが、変わらぬ妻の姿をみて、介護の虚しさを感じることは少なくありません。妻への虐待の末に殺してしまうことが絶対に起きない、とは言えない心境にもなります。認知症に関わる殺人事件の報道を知っても他人ごとではないのです。

転居後

転居してから、認知症の妻の状態も私の思いも特に変わったというわけでもありません。

介護に関わる私の日課は、1日4回の紙パンツの交換、週3回のデイサービスの日の衣類などの準備と午前と午後との送迎車であり、後は料理、洗濯、掃除、買い物などの主夫的な家事です。2月に1回程度、診療所に受診させ、近くの美容院にも連れていきます。デイサービスやショートステイで妻が不在のときは、レストランでの食事をしたり一泊旅行を楽しみます。

日常的な介護より難しいのが、認知機能の低下した妻が混乱や不安な状態に陥ったときで、その頻度は少なくありません。確かに、過去の記憶が断片化し、日々の時間の経過のなかでついさっきの世界は薄れて消え去り、先の世界も曖昧で漠然とするなかでの妻が今を生きることは、激しい混乱と強い不安とさらに恐怖が伴っているに違いありません。

こうした状態で、コミュニケーションが半ば立たれた認知症の妻に、安心させるような言葉がけするなどの介護の工夫をいくらしても、すぐに収まることはないのです。そのときの妻の姿をただ耐え忍んでみるだけです。過ぎ去るのを待つしかありません。この状態に陥るきっかけもはっきりせず防ぐ手立てもよくわかりません。

これ以上何ができるのかと考えるなかで、在宅で介護しながら一緒に生活していること自体が認知症の妻には不都合なのではないか、むしろグループホームで生活したほうが妻にとって望ましいのではないかと思うこともあります。もっともデイサービスやショートステイでの様子を聞くと必ずしもそうではなさそうにも思えます。

毎日のように認知症の妻が混乱と不安のなかで何をしてよいかわからず、私自身もなす術がない状況に置かれると、私が妻の命を絶つこと―「介護殺人」―が頭をよぎるのです。もっとも転居後も疲れた私の介護に逆らう妻を、殴ったり蹴ったりすることがありますが、それより先に進むことはありませんでした。

説明と私見―「介護殺人」―

「介護殺人」と思われる、ネット情報からの日本とイギリスの事例を紹介します。

認知症の家族を介護する多くの介護者は、長い、見通しの暗い在宅介護のなかで多かれ少なかれ一度は「介護殺人」を考えるようです。特に高齢で認知症の配偶者をその配偶者が介護している場合、日々の楽しみも少なく将来への期待も乏しいなかで「介護殺人」を考えることが多いようです。こうした介護者には子供たちへ負担をかけたくないという配慮もあるようです。

わが国で認知症に関わる「介護殺人」が後を絶ちませんが、このことは日本だけではありません。頻度の違いはあるにしても世界各国で起きています。その背景として次のことが考えられます。

さらに「介護殺人」の背景として漸増していて無視できないのが、認知症の高齢の親を未婚の子供が一人で介護している状況です。乏しい収入と不安定な生活を送り、介護保険サービスを利用せず孤立無援のなかで認知症の親をただ一人で介護している派遣労働者の息子は、力があり暴力をふるいやすく「介護殺人」に至りやすいと思われます。

「認知症にやさしい地域」は「介護殺人」を容認しない地域です。認知症に関わる「介護殺人」を「不幸な出来事」として片づけないで、その要因を調べ、防止策を練ることも今後の「認知症対策」に欠かせないことです。

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