2007年に愛知県で起きた、認知症の男性が一人で外出して列車に跳ねられる事故の損害賠償責任をめぐり最高裁にまで至った裁判では、「介護する家族には賠償責任はない」という判決が3月1日に下り、「生活状況や介護の実態などを総合的に考慮して判断すべきだ」との基準が示されました。高齢者介護における身体拘束について、「考えるべき時」が来ています。後編は、介護職員が無意識につくってしまいがちな見えざる壁による身体拘束について考えます。
前編でも紹介したとおり、施設での高齢者介護においては、緊急止むを得ない場合にのみ、身体拘束が存在しています。それは、
これら3つの条件をすべて満たしている際に、ご家族へ同意を得て行うものです。
私が経験した例では、車椅子に座っているご利用者で、急に前のめりに傾いて倒れそうになる方で、そのご家族は、車椅子を押して一緒に散歩に行きたいが、危険で自信がないとのことで、車いすと身体とを縛るベルトを希望されました。
「ご家族と二人で散歩をするときのみ、車椅子のベルトで身体を固定する」ことでご家族と同意し、家族のみでの散歩が実現したのです。
このような身体拘束を伴う行為が必要とされる際には、介護者とご利用者(とその家族)で十分に話し合い、内容を詰めてから行うことが基本です。
高齢者の介護現場では、このように、身体拘束に頼らざるを得ない瞬間というものが確かに存在しています。しかし、それとは逆に「安易な身体拘束」というのも実は潜んでいるのです。
たとえば、在宅介護職員が「危ないから」と独断で高齢者を部屋に閉じ込め鍵を閉める。このような安易な拘束は言語道断であり、高齢者虐待と位置づけられる所以となるでしょう。
では次のようなケースはどうでしょうか?
施設の介護職員が、「この方、よく歩かれて危険だから」「見守りが出来ないから、とりあえず座っていてもらおう」と、職員の目の届きやすいリビングスペースにご利用者を集める。ご利用者が少しでもリビングから離れようとすると、何かと理由をつけて「こちらに居ておきましょうか」とリビングへ引き戻す。
二つのたとえ、場面は違います。職員の言動も違います。しかし、ご利用者が受ける印象は違ったものなのでしょうか。結果を見比べてみたときにどうでしょうか。後者は確かに「厚労省が掲げる身体拘束」には抵触していません。しかしそこに存在するのは、リビングから出て行くことのできないご利用者の姿です。
職員は、知らず知らずの内に「見えざる壁」をつくり上げてしまい、無意識に、別の形で身体拘束へ近づいてしまっている可能性があるのかもしれません。
初めから「拘束しなくては……」と考えながら介護にあたっている職員は居ないと思います。しかし前述したように、職員の一挙一動が、無意識の内に見えざる壁をつくってしまい、結果的にご利用者に窮屈な思いをさせてしまっている可能性は、常に潜んでいます。「ご利用者にとってどうなのか?」を、身体拘束予防という視点で常日ごろから考えておくことが求められているのです。
職員の過干渉な介護によって、ご利用者の生活が息苦しくなる……こんなに悲しいことはありません。職員は、ご利用者に何か困り事が発生した段階でアクションを起こし、ご利用者と共に困り事の解決を模索することが理想でしょう。これを自立支援介護というものだとしたら、もしかすると、その対義語は「身体拘束」となるのかもしれません。
しかし、生命の危険があるにも関わらず、困り事の発生を待ち続けるという場合はどうでしょうか。ベッドから落ちるリスクがあるのに、落ちるまで待つということ……。この、日常とリスクの狭間に揺れる介護者も、世間に多いのではないでしょうか。そのためのセンサーであったり、時には過剰な見守りも止むを得ないという指針ですが、ここで重要となるのが、有事の際、「ご利用者がどう受け取るか」だと思います。
ベッドセンサーが反応したら、ご利用者に対して有無を問わずに再入床していただくのか。はたまた、ご利用者がベッドから出ようとする理由を探り、トイレなのか、眠れず起きたいだけなのか、ご本人にとっての理由を共に見つけ、思いを汲み取るケアを行うのか。
身体拘束の見えざる壁に悩んだとき、ご利用者がどう受け取るかが、壁の有無を示す答えだと私は思います。
今回私は、施設職員という立場から「安易な拘束は高齢者の虐待」「しかし、介護において拘束とうまく付き合う必要もある」「介護者がつくる見えざる壁の存在」を前後編に渡り紹介してきました。
冒頭でも述べたように、2007年の列車事故の判決が物議を醸している今、我々にはまず「高齢者介護における身体拘束を、正しく理解すること」が求められているのではないでしょうか?
同様の事故、及び裁判の判決に右往左往されることのない未来を願うばかりです。