被災地支援を通じ、肌で感じた介護の原点 Vol.1

2016-07-15

熊本県を襲った大地震で、益城町のある特養に、介護職員として支援に入った筆者が経験した支援チームのリーダー役。意見や問題が噴出する毎晩のミーティングであらためて感じた介護の原点とは何か、を考える。

被害の多かった熊本益城町へ、介護職員として被災地支援に

2016年4月14日、熊本周辺を襲った未曾有の大地震は、さまざまな被害をもたらしました。

特に被害が多くみられた熊本県の益城町・南阿蘇村などの被災地は混乱を極め、県外から続々とボランティアの支援が入ることになりました。

被災地における介護現場もまた、「被災地」です。崩壊した介護施設もあれば、比較的被害の少なかった特養を避難所にしている所もありました。

私は、介護職員として益城町の特養へ約一週間支援に入り、被災したご利用者・介護職員を支える経験をさせていただきました。

被災地での支援を通じ、肌で感じた「介護」の原点を、論じてみたいと思います。

10法人以上から急きょ派遣された介護職員が特養でチームを組む

私が支援に入った益城町の特養では、10法人以上から派遣されてきた支援チームのメンバーが、会議室をお借りし、持参した寝袋を設置して、寝泊まりしていました。会議室を拠点に、日中は介護職員として各ユニットへ出勤してご利用者のケアを行い、また会議室へと戻る。このような支援を3日〜10日間続け、次の支援者が来るとバトンを渡すという流れです。

この支援チーム、「すべては熊本の被災者のため」という思いはあれど、全国各地から集まってきた介護職員の面々なので、年齢・介護経験・介護の価値観・被災地支援への価値観、などが微妙に違います。二十歳の若者もいれば、役職に就いている人もいてさまざまでした。

震災で急きょ集まった支援隊ですが、ここで最も必要とされたのが「統率」です。

簡単なようで簡単ではない。支援チームの役割とは……?

私は、その支援チーム内のリーダーを担当させていただくこととなりました。

多い日で20人弱もの支援者が集まる特養の会議室。被災地を支援する仲間として、コミュニケーションをはかるのはもちろん、互いの情報交換が重要です。

支援者たちは毎日、特養の各ユニットに配置されご利用者のケアにあたるのですが、初めて踏み入れる施設環境ですので、ご利用者の顔と名前、身体状況を覚えるのがやっとの状況です。

少しでも円滑に支援を行うため、支援者たちは独自に情報交換を行い、次に支援に入る者にしっかりとバトンを渡さなくてはなりません。自分たちが入ったユニットの情報を寝床となっている会議室へ持ち帰り、毎晩行われる支援者だけのミーティングで発表します。

リーダーであった私は、毎晩のミーティングで司会進行を行い、議論にあがった内容の解決に頭を使う毎日でした。

毎日10人以上の衆が輪になり、自分の担当するユニットの情報を発表します。自分の行った業務をただ読み上げる者、現地職員のケア方法の指摘を行なう者、衛生面について意義を唱える者、さまざまな発言がありました。

「自分は介護現場から10年程遠ざかっているので、何もできないことを伝え、雑用だけを行いました」という者もいました。

私は、このような多種の意見をまとめていましたが、さらに、現地特養の職員は「そんな」我々をまとめ、各ユニットへの人員配置をしてくださっていたのです。

支援に入った介護職員の人数は、地震から1ヵ月で延べ280人になったそうです。さまざまな価値観を持った、介護職員280人を相手に切り盛りする現地特養の職員の心労は、計りしれません。未曾有の大震災により混乱を極める特養、その混乱を助けるために我々支援者が集まったにも関わらず、上記のような意見が噴出すること自体に疑問を抱いてしまいます。被災地を支援する」という支援隊の本来の目的が、いつしか「自分たちがケアを正しに来たのだ」と錯覚してしまっていたのかもそれません。数日で去る存在にも関わらず……。

被災地の支援者として本来の立場を逸脱した発言もあり、苦慮する

ミーティング中、鹿児島の支援者から、次のような発言がありました。

「ここの施設は、ご利用者の食べこぼしがそのまま放置されている。だれも掃除しようとしない。消毒液なども見当たらない。食中毒への意識が薄いのではないか。松田さん、我々の代表なんですよね? ここの施設の人に、このような意見があったと伝えてください」

このときの会議室のピリついた空気を、私は今も忘れません。

そして、悩みました。この件を、そのまま現地特養の職員に伝えるのは簡単なことですが、果たしてそれでいいのか? 悩み、考えました。今、我々がいる場所と役割を。

ここは熊本県益城町、数日前には震度7の大地震が起きた被災地であり、ご利用者と職員は命からがらの生活をされている。他府県からの支援者たちの力を借り、文字どおり必死の想いで生活を取り戻そうとされている最中。

そんな中、支援者である我々が「食べこぼしを早く掃除してはどうか?」という指摘を行う行為と、その発言が生むさまざまな影響についてどう考えるのか。

鹿児島の方は続けます。「もし、食中毒が起こってしまったら、我々も責任に問われますよ。私は、後に来る支援者に対し『来るな』と言いますよ」と。

介護・福祉の原点に立ち返る 震災によってふだんできていたことができなくなった、そのことを助ける役割

我々が出した結論は、「被災地支援とは、こういうこと」というものでした。

ケアが行き届いていないのなら、そこを支援者が助ければいい。

食べこぼしがそのままの状態なら、そこを支援者が助ければいいのです。できない事情がある、できない事情を静かに汲み取り、支援者が動く。それが、有事の被災地支援の在り方なのではないかと。

後から聞いた話ですが、食べこぼし等の掃除を請け負っていたボランティアの方が、震災被害により施設に来られなくなっていたとのことでした。

『震災によってふだんできていたことができなくなった。その、できなくなったことを助けるのが、被災地支援を行う我々』。

この構図は『加齢や疾病によりできていたことができなくなられた要介護者に対し手を貸す』という、正に介護・福祉の原点といえるのではないでしょうか。

できなくなられた方に対し「何故できないんですか」「何故やらないのですか」と聞くことはないでしょう。我々支援者は、いずれ去る存在です。現地の職員がいずれ立ち上がるための一時的な手助けを行うのみの存在。

支援チームのリーダーは、常にこの指針を念頭に、支援者を統率する必要がありました。各々の勝手な価値観を無神経に振りかざし、被災地派遣の役割を履き違えてしまう危険性への警鐘として。

エピローグ・鹿児島の方とのその後

我々支援者たちが寝泊まりしていた特養の会議室では、床に寝袋と枕を並べ、多い時ときで十数人が雑魚寝です。

毎晩、全国各地の支援者たちと、互いの介護感を語らいました。自分の職場の話、介護の話、あるべき介護、ありたい姿、一期一会の縁を実感するには十分な空間です。

「食べこぼしを早く掃除すべきだ」と提案された鹿児島の支援者の方とも、就寝前の1時間、私はとことん話し合いました。

就寝前の脱力した雰囲気と、ミーティングではない、言わばインフォーマルな空間ということもあり、笑い話を交えながら、互いの思いを交錯させることができました。

鹿児島の方が思う「大切にしたいこと」と、私の思う「被災地支援者の役割」との最大公約数地点まで話が及んだ瞬間、心と心で握手をした気分になりました。

最終的に鹿児島の方は、方言を交え「私はですよ、新幹線は初めてだったのに、鹿児島から熊本へは山だらけで、トンネルの景色だらけでしたよ」という笑い話を残して私より4日早く帰られ、私はその4日後、現地特養の介護課長へ「こんなことがあったんですよ〜」と笑いながら報告をしました。

余震冷めやらぬ会議室での雑魚寝の夜は、一種の全国介護職員修学旅行のようでもありました。

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