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自宅で看取るということ

2016-04-18

長い間にわたり訪問介護の仕事をしている中、何度か臨終に立ち会ったことがあります。その際にいつも思うのが「幸せな最後だなぁ」ということ。ひと昔前ではなく、暫く前と言った方が適当かもしれないほどずっと以前には、自宅で臨終を迎えることが当たり前だったのでしょう。しかし、現代社会においては、これが大変少なくなっています。それは、いった何故なのでしょうか。

医療発展によってもたらされた変化

現代では少なくなってしまった、自宅で臨終を迎えるケース。その理由としてまず挙げられるのが、「医療の発展」でしょう。医学が進歩し、昔は諦めなければならなかった病気でも治療できるようになりました。人々は多くの病気に対して、完治の望みが持てるようになったのです。また、完治とはいかないまでも、病気と上手く付き合って、治療しながらそれなりの生活が送ることができます。

日本は国民皆保険の国。高額な医療費も、手続きすればかなりの金額で助成が受けられます。ですから、具合が悪くなれば誰もが迷わず病院に行き、また、家族が自宅で倒れてしまえば、救急車を呼び搬送することでしょう。全てとは言えませんが、ほぼお金の心配をすることなく医療が受けられるのです。

ですから、たとえ80歳・90歳になって体調不良が起こり、検査の結果「癌」が見つかれば、手術を受けるというケースもあります。実際にこれまでの仕事で、そういうケースを経験してきました。「80歳になったのだから、もういいでしょう」とは言いません。しかし、体力が低下した人の与後を考えると、果たして「積極的治療」が最善なのかと考えてしまいます。

ある研修会に参加した際、日本人の「死生感」について話を聞きました。日本人は死を恐れる国民性なのだそうです。例えば生活の中で宗教が当たり前になっている国々では、死別することはとても悲しくて淋しいことながら、恐ろしいとは考えないとのこと。「神に召される」という捉え方です。

しかし日本人は、「死」という言葉を忌み嫌います。「縁起でもない」「不吉なことを言うもんじゃない」などと、敬遠される言葉でしょう。そういった国民性もあり、なんとか命をつなごうとする気持ちが強くなるのです。

もうひとつ、「親戚付き合い」も延命治療に大きく影響しているそうです。現代のように福祉が発展していない時代には、親戚や近所同士の助け合いが暮らしの中で大きな力になっていました。そんな歴史の中で、「治療を終わらせたり断ったりしたら、この先何を言われるのか」という考えが頭を過り、最善の道を選べなくなるといったことも多々あるようです。

そのため、「生きている」のか「生かされている」のかという状態の人が多くなっています。こういった背景があり、病院のベッドあるいは施設で晩年を暮らし、そこで息をひきとる方が少なくありません。

自宅で看取るという選択

それでは実際に「自宅で看取る」という選択をした場合、どうなるのでしょうか。さまざまなケースがありますが、ここでは「老衰」を例に挙げてみましょう。

Aさん女性・94歳。認知症はありますが、食事は用意してもらえば自分で食べられます。オムツを使用していますが、時々、思い出したようにトイレに行きます。性格は穏やかで会話もなんとか成り立つ状態。長男夫婦と3人暮らしですが、夫婦共働きのため日中独居となっていました。現在、治療中の病気はないものの、若い頃に胃を摘出しているので食が細くなっています。

この方は98歳となり、自宅で家族に見守られて亡くなりました。持病がなく通院の手間はなし。この方の夫も数年前に自宅で看取られており、家族に相応の覚悟があったというのが、自宅での看取りを可能にした大きな要因でしょう。つまり、「家族の覚悟」です。

訪問介護の開始当初はスタスタと歩けていましたが、最後はほぼ寝たきりでした。はじめは気まぐれに目についた食べ物を自ら口へと運び、食事量も確保できていました。しかし、最後は介助にて食事を促しても、ほとんど召し上がらなくなっていったのです。もともと細身だったこともあってか、一段と痩せて言葉もなかなか出なくなり、声に力がなくなりました。1日2回午前と午後に訪問し、オムツ・食事・水分補給等の介護を実施。それぞれが30分ずつの計画です。朝8時に息子が出掛け(嫁はその前に外出)、夕方6時に帰宅するまでの間、ヘルパーの訪問以外は一人で家にいます。

そんな中、体調が優れなくなった際に話し合いを実施。一人でいる時間が長く何が起きるか分からないため、ショートステイの利用や週何回かのデイサービス利用も提案しました。しかし、「これだけ体力が低下している人の環境を変えるのは、かえってかわいそうだ。家にいるのが好きな人だから、今まで自宅で面倒を見てきたのだからそれを続けます」と、家族がきっぱりと仰いました。ヘルパーは最悪の場合、「第一発見者」になってしまうかもしれない状況です。そうした際の対応手順なども取り決め、家族とヘルパー協同の在宅介護が続きました。最悪の場合でも救急車は呼ばず、掛かり付け医に連絡すること。長男夫婦はこの状況を勤務先に伝え、いつ緊急の呼び出しがあっても対応できるようにしてあります。

幸い……(と思いたい)、この方は長男夫婦が在宅していた休日の朝、2人に見守られて息を引き取りました。最後の場面には掛かり付け医も立ち会っており、「検死」ということにもなりませんでした。

このケースでは持病がなかったので、かなりスムーズに「自宅での看取り」という選択に至りました。しかしそれでも、「もしもの場合でも救急車を呼ばない」「危険を承知で仕事を続ける」といったことには、かなりの覚悟と決断がありました。

食が細って必要な栄養が摂れなければ「胃ろう」に、足がふらついて転倒の危険が大きければ「車椅子」にと、自宅で看取るには難しい状況を作ってしまうことがあります。「○歳になったから、もういいでしょう」ということではありません。しかし「生きている」というよりは「生かされている」といった状態で、人生の最後を見知らぬ場所でというのはやはり淋しいように思います。

だからと言って、お年寄りの介護のために仕事を辞めなければならない、介護疲れで共倒れになってしまうというのも困った問題です。このような状況から、現代社会で「自宅で看取る」ことが難しくなってきているのは確かでしょう。ですから「不吉なこと」「縁起でもないこと」などと言って避けるばかりでなく、もしそういう状況になったらどうしてほしいのか、どうすることが最善なのかを、家族で話し合っておくことが大切ではないでしょうか。

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