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「ぼけ」「痴呆」から「認知症」へ……名称変更と共に失われたもの

2016-06-10

昔はよく近所の奥様方の井戸端会議で、「もう、うちのおばあちゃんが最近ぼけちゃって」「うちのおばあちゃんも、最近物忘れが多くて」なんていうやりとりがありました。そこには、どこかほのぼのとした空気が流れていたものです。しかし現在ではどうでしょうか。「最近、うちのおばあちゃんが認知症っぽいの」「認知症って大変なのでしょ? 急いで病院で診てもらった方がいいんじゃない?」なんて、なんだか物々しくなってしまいました。認知症という言葉が生まれると共に、どんな変化が起きてきたのでしょうか。

認知症という言葉が生まれた

「認知症」という言葉は、「ぼけ」「物忘れ」「痴呆」などの呼び方を廃止するべく2004年に厚生労働省によって改定されたもの。実際に私がいた介護現場でも、認知症は「痴呆症」と言われていました。改定以降に介護の世界へ入った方は、「認知症」しか知らないかもしれません。あるいは知っていても、「痴呆症」とは言わないでしょう。なぜなら、もともと呼び方が改正される表立った要因が、「その呼び方に侮蔑性がある」こととされているからです。

そのため「認知症」以外の言葉は、まるで介護業界で言ってはいけないNGワードのように避けられています。そしてなぜか、ささいな物忘れがあったり、なんだかボーッとしていたりする高齢者の方々に対する世間の見方まで変わってしまったようです。

そんな名称改定と未改定の狭間だった2004年、ヘルパー時代にこんなことがありました。

長屋で一人暮らししていたSさん。ときどき近所で迷子になり、警察のお世話になっているみたいだと近所の方から居宅へ相談がありました。遠方に住む家族も了承し、とんとん拍子で介護保険を受けることに。まずは見守り兼生活援助で週3回、私ともう1人のヘルパーTさんが自宅へ訪問することになりました。

最初は「自分でできる」「人に頼ったら恥や」なんて片意地張っていたSさん。しかし次第に変化が見られ、1〜2か月後にはサービス終了時間になると「あんた、もう帰るの?」なんて悲しそう。Tさんと「Sさん、優しいとこがあるよね」なんて、詰め所で笑って話していました。

Sさんは、おしゃれで外出好き。しかし迷子になってしまうので、「出かけたいときはヘルパーさんと一緒でね」とSさんと約束しており、Sさんも律儀に守ってくださっていました。しかし、サービス開始から6か月経ったある日のこと。いつものように訪問すると、どこを探してもSさんがいません。家のカギは開いているのに、電気・ガスのメーターが動いてない。近所の方に聞いても知らないようで、警察の方も見ていないとのことでした。「大丈夫かな」と少し不安になりましたが、後日ケアマネに連絡があり、近所の畳屋にいたのだそうです。旧友が遊びに来ており、昔話に花が咲いて奥でお茶飲んでいたのでした。ケアマネへの電話も、本人からあったそうです。このときは「なんだ、良かった」と、Tさんと私は胸をなでおろしました。

「でもSさん、友達と喋っていたなんて久々だよね」

なんて詰め所で話していたときのこと。コーディネーターさんが「あのね、Sさんは認知症なんだから、進んだかなと思ったら報告しないといけないの」と、認知症チェックシートというオリジナル書式を見せてくれたのです。普通のアセスメントに加え、「認知症」と診断された方に独自で作っているのだとか。

「ヘルプ時間を忘れるのは、物忘れじゃなく立派な病変じゃない。しっかりしないとダメだよ!」

と、険しい表情のコーディネーターさん。見せられたチェックシートには、長期記憶や短期記憶、手続き記憶、エピソード記憶、意味記憶など、慣れない項目が羅列されていました。このとき、私が思ったこと。それは、

「物忘れは特徴や個性ではなく、病気になったんだ」

というものでした。しかし、それは私にとってあまりに突然のこと。その頃を思い出すと、今でも何と言ったら良いのか分からない気持ちになります。

「認知症」という言葉のパワー

お医者さんでさえ改定前までは、「だいぶぼけてきたね」「痴呆でもできることがなくなったわけじゃないよ」などと叱咤激励ながら、物忘れの患者さんを見守っていました。家族もまた「もう年だから」「ぼけちゃって、もぅ、しっかりしてよ」などと、物忘れを加齢による1つの特徴だと受け入れている方がほとんどだったでしょう。しかしそれが「認知症」となり、「病気」で「患者」になってしまってからは、「あの人は認知症だ」という目で見られます。さらにその先入観から、差別にも似た敬遠や対応をされるようになってしまったように感じ、そのことに私は疑問を持っています。

もちろん「認知症」と診断されることで、良いことだってあります。まずは薬が処方されること。次に、専門的な治療が施されることです。あるいは病気だと言われた家族が熱心になり、脳トレさせるために家を訪れる。また介護職員にとっては、今まで「この方の対応はどれが正解なのか?」と悩んでいたものが、ふと手に取った「認知症の原因とその介護方法」のような1冊の本で、明日からも頑張ろうと思えるようになります。

さらに認知症関連の資格取得も薦められており、介護従事者はどんどん勉強することが可能。例えば認知症ケア専門士や認知症ケア管理指導員などが挙げられます。最近では、一般の方向けに認知症サポーターキャラバンのCMまで放送されるようになりました。「みんなで認知症患者を見守ろう!」という動きから、それまで介護に興味がありつつ恥ずかしくて手を挙げられなかった方が、高齢者の手助けをできる良いキッカケになるかもしれません。

しかし悲しいのは、その対象とする人物像。「高齢者・お年寄り・おじいちゃん・おばあちゃん」だからではなく、「認知症患者だから」と一線引いた関係性がもたらしているものだということ。無条件で手が差し伸べられているわけではありません。改定以降、その傾向は速度を増しているようです。「年を取れば、誰でも多かれ少なかれ物忘れが出てくる」といった価値観さえ影を潜めつつあります。そして壮年の健常者は、普段のちょっとした物忘れも「認知症の始まりなんじゃないか」と恐れるようになりました。

私は「もぅ、おばあちゃんしっかりしてよ!」なんていう、昔のおおらかな受け止め方ができていた時代を懐かしく感じます。また、それこそが人間味のある、温かい介護の原点なのではないかと思うのです。

今の若者にも伝えたい

若い男女の間でも、似たようなことがあるでしょう。「あなた(おまえ)って、そういうとこあるよね」なんていう言葉で、言い出したら終わってしまう関係。「あの人は認知症だから」という認識はこれに似ているような気がして、介護職員としては、なんだか可笑しくなってしまいます。

一線引いた時点で、高齢者の個性が死んでしまう。「認知症」という病気で治療中の患者だから、正しい対応をしなければいけない。果たしてそれが本当の介護であり、個別性の理解なのでしょうか。このことに、答えは無いのかもしれません。しかし今の若者には、「昔、認知症はありのままみんなで受け止めて、ゆったり世話してたんだよ」と教えてあげたいものです。

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