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介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」


利用者の立場に立った場合、「徘徊」「帰宅願望」、タオルで「遊ぶ」、「いじる」等の表現は使うべきではないと考えています。他のスタッフにも利用者の発した「言葉」やその時の状態を具体的に書くよう伝えてきました。しかし、先日看護師より「徘徊」は「徘徊」、「帰宅願望」は「帰宅願望」、とした方が簡潔で分かりやすい。との指摘がありました。これには納得できません。
記録は文字ではなく、そのスタッフの「捉え方」を表す。その「捉え方」こそが、認知症介護において重要だと考えるからです。

RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

記録の書き方には、共感できるところもあります。

個人的に、記録を書くとしたら・・・
「徘徊」→「フロア内あるかれている。表情は硬い(又は穏やかなど)」
「帰宅願望」→「~やりに家に帰らないといけないと話あり」
「いじる」→「○○が気になっている様子。これを使っていることで、
       気分は落ち着いているように見える」
になるかなぁと思います。

ただ、徘徊・帰宅願望・いじると言った行動に対して、
ケアプランの中にどう生かすのかが問題なのかなぁと思いますよ。

RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

先日ある入居者が、「たこ焼き」を、食べている途中で、手の平にのせ、石鹸で手を洗うように両手の間に挟み、こねて、マヨネーズやソースをクリームのように塗っていました。例えばこのような状況を、たこ焼きで「遊んでいた」「問題行動」と書いてしまえばそれまでかもしれません。しかし、状況を具体的に書くことで、「ご本人は手が洗えるのかもしれない」、「きれい好きだったかもしれない」という「捉え方」「気付き」が生まれるかもしれません。「綺麗になったから、流しに行きましょう」と声掛けして、一緒に洗面所へ行って手を洗う。といった対応が出来ると思います。いわゆる「問題行動」の中にも、「ご本人の力」、「その人らしさ」は、いくらでも見つけることができます。もしも、自分が「~さん」だったら、と考えたら、「徘徊(無目的に歩く)」等は書けないと思います。

RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

うちの施設で『徘徊』は『ホール内を歩かれ、何かを探してる』など利用者さんの立場(目線)で記録に書くようにしてます。職員の都合に合わせてはダメですよね・・・。

RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

客観的なのが重要だと思います。
例えば、上記のたこ焼きの件ですが
本当に石鹸だと思って洗っていたのかどうかは
本人にしかわかりませんよね?
徘徊している人に、どうかしましたか?と尋ねて『○○を探しているのです。』
と言えば、「○○を探してフロアーを5分ほど歩いている」等でいいと思いますが
ただ歩き回っているのを見て、何かを探しているようだ。と言うのは
利用者目線とは違うのではないかと思います。

誰が読んでも譲許を正確に把握できるような、客観的事実を
的確に記入する事が大事だと思います。
それぞれの施設の中での共通事項が違えば、記入の方法も変わるでしょう。
日常的に「徘徊」と言う言葉を使っている施設で
違う表記にすれば、違う認識になる恐れがあるだろうし。

利用者目線は介護にとって必須ですが、あいまいな表記では
利用者象は捉えられないし、職員同士の
児共通認識が得られないのではないかと思います。

利用者の行動に対して、職員がどのように対応しその結果どうだったか。
『客観的事実』を詳細に書くことが望ましいと感じます。

RE:RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

訂正です。

譲許=状況、
児共通認識=共通認識です。

訂正します。すみません。

RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

記録は介護者の捉え方ではなく、客観的に事実を記入するものではないでしょうか?それを書いた上で、介護者の対応と利用者さんの反応を記入するのでは?介護と看護では、見るところが違うので、利用者さんの行動や発言、身体状況においては、両者に通用出来る記入法を求められると思います。

RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

初めましてきらりです。ここで言われている問題行動とは、認知症から起きる場合だけでなく、精神病から起きる場合もありますし、本来の性格の場合もあると思いますがどれも対応が変わってきますよね。
看護師は、記録を見てそこから専門性を発揮して頂く訳ですから曖昧なものでは困るかと。認知症に対して専門性を発揮するのは介護職なのですからやはり曖昧だと困ります。
たこ焼きは一例ですが介護職がその方に可能性見いだし、生活に出来る事が増え、活き活きして頂くのが仕事ですよね。
しかし徘徊の場合何を目的にしているのか本人の言葉を記録するだけで良いと思います。夜中に介護職がどのように対応してどうにもならなず延々と動かれていることもあるでしょう。それによって不眠になり身体の不調が出てくるかもしれません。その時、看護が専門性を発揮され必要な記録は、どのぐらい睡眠がとれているか食事量や運動量、内容がどうであれ介護職が対応しきれず興奮状態がつづていれば精神科受診も考えるでしょう。憶測は誤解ゃ混乱を招くかと。個人で判断する為にではなくチームで考える為に必要だと認識しているので皆が理解できるものでなければならないとは思います。ただ、看護側に認知症や精神疾患に対して 明らかに問題視していない態度、必要のない記録と否定されては介護職は困りますね。私達にはその方のその方らしい生活記録が必要です。勿論、家族様だって。
たとえ知りたくない事でも正確に伝え同様に各専門職それぞれに必要な記録が少し違うと思います。お互いに押し付けあうのはどうかなと…と思いました。

RE:RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

 私も、事実を具体的に書くことが大切だと思っています。例えば、「廊下を歩いていた」「トイレの後、居室より出てこられ、玄関のほうに向かわれた。外をしばらく見たのち、フロアに戻ってこられた」というように。私が疑問に思ったことは、そのような行為を「徘徊有り」といった一つの言葉でまとめてしまう考え方です。
 さらに見てみると、「徘徊」は、もともと「目的もなく歩きまわること」という意味であり、「弄便」は、「便を弄ぶ」行為です。これらは、「問題行動」と言われた「表面的な行為」を表したものです。その人の立場に立ってみれば、たまたま「トイレが分からなかった」かもしれません。また、「水洗トイレの使い方が分からず、自分で処理しようとした結果」かも知れません。そのような「誰にでも起こりうる行為」(自分も含めて)を、認知症高齢者だけに使っている「言葉」で「表現」してしまうことに、問題があると思うのです。
 

RE:RE:RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

認知症介護は、日々変化しています。かつて「問題行動」「周辺症状」と呼ばれた行為は、「行動障害」(BPSD)と言われるようになりました。そして、現在ではパーソンセンタードケア(その人中心の介護、その人の物語中心の介護)が目指すべき理念とされています。認知症ではなく、「その人」を中心に見て介護する。「人」という面においては、スタッフも、利用者も関係ありません。そのような状況において、スタッフと利用者に線を引く表現は、いかがなものか。例えば「濡れたパッドがベッドサイドのテーブルの上に置いてあった」という行為の場合、スタッフ側にとってみればそれは「不潔行為」かも知れません。しかし、ご本人にとっては、ある意味では「清潔行為」とも言えるでしょう。先日、入居者が急に入院することになり、病院へ行ったところいきなり、「問題行動は?」と言われ、唖然としてしまいました。

RE:RE:RE:RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

こんばんわ。
私も経験有り、受診、入院の際、医師に聞かれます。
当初は、唖然としました。
「問題行動とは何を指して言われているんでしょうか?」
と聞き返した所、そんな事もわからないんですかと返されました。
そんなもんなのかと思いつつこれが家族であればどうだったのだろうかなんて考えつつ。
それからは、「問題行動はありませんが、認知障害がありまして、~状態の時は、~の行動があり~の注意が必要です」と伝えます。
医師の反応は、たいして変わりません。
自己満足に過ぎませんね。わかっていても言わずにはいられないのです。
退院後のカルテにはいっさい認知症状については、触れられていません。
うちの提携の総合病院は完全看護ではないので、家族の方に付き添いして頂かないと困るとの事です。
認知症状に対して、看ようとはされないので。
家族から、よっぽどの事がないかぎり、入院させないでとの声が多いのはその為だと思います。
病院は治療の為の場、施設はその方らしく支援する為の場とわりきるしかないのが現状です。

RE:RE:RE:RE:RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

 唖然としたのは、自分だけではなかったのですね。
  
「徘徊」は確かに、介護の業界では「当たり前」に使われています。しかし、それを「第3者」が見たら、どう思うでしょうか。「徘徊」は「目的もなく歩く行為」であり、決して印象の良い言葉ではありません。

「後期高齢者医療制度」にしても、「後期高齢者」という言葉は、業界では「当たり前」ですが、制度の名称になったとたん、「後期とは何だ」といった非難が上がりました。

「問題行動」にしても、その医者からすれば、「当たり前」だったはずです。自分には、「そんなことも知らないのか」という態度に見えました。よくとれば「治療に問題があるから、問題行動」と言えるかもしれませんが。

RE:RE:RE:RE:RE:RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

半年ほど前、ホームに入居された方の、情報記録には、「他のホームに転居させる予定」と書かれていました。また、アセスメントシートには、「(御本人が)私は〇〇だと、と言いふらしている」「目を離したスキに、髪染めを食べた」と書かれていました。十分に歩行は杖等を使わずとも、自立しているのにもかかわらず、風呂もリフトで入っていたとの事。

初め、その方は「アー、アー」「私はさみしい」と声を発し、また「私は〇〇だ」と自慢しておられました。また風呂では、「髪をグチャクグチャにされるのは嫌」と言い、スタッフを「叩いたり」、「湯をかけたり」されました。
しかし、「声」を出すのは、「仲間」がほしい、「居場所」がないまた、「注目してもらいたい」のではないかとの方針の下、スタッフが傍についたり、気の合う入居者と話をしていただく機会を設ける内、落ち着かれました。今では「アー、アー」はほとんどなくなりましたし、お風呂も静か。「ありがとう」「ごめんなさい」「あなた(スタッフ)が好き」と言われるようになっています。スタッフの肩をもんだりもして下さいます。もちろん、薬はほとんど使っていません。

このような変化から、情報記録やアセスメントシートを改めて見ると、その施設の「介護の質」を疑いたくなります。転居「させる」、「言いふらしている」、「目を離したスキに」は、スタッフの立場での「捉え方」の現れと言われても仕方がない。風呂でリフトを使っていたのは「暴れて」手に負えなく困るからと思えます。髪染めに関しても、置いてある場所の問題であり、ご本人ではなく周りの「環境」に原因があったのではないでしょうか。「言いふらしている」のではなく(御本人からしてみれば)「当然」の発言、主張であり、むしろそれを発する「力」があるとも、考えられるでしょう。

100歩譲って、現場は「心を込めて」関わってきた。色々と努力、工夫したが限界だった。としても、上記のような「表現」からは、それは十分に伝わりません。ここに、「記録」の一つの「恐ろしさ」があります。

RE:RE:RE:RE:RE:RE:RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

他施設から、入所された方の情報の少なさに又曖昧さに奮闘する事は、多々ありました。その分目の前におられる方を知る為に関わってきたからこそ今現在、揺るがない信頼関係を築く事ができたと思っています。
何もかも始めからわかっていたらここまで関わっていただろうかなど考えてしまいました。記録ゃ情報はとても大事なものですが、信頼関係がなければ意味をなさないのかなと。介護拒否、暴言、暴力等の問題行動ありなんて情報を読んで身構えた事もありますが、関わる中でそのような状態に一度もなられていない利用者もおられます。未だ謎の紙きれですが単純にうちの施設にあったんだねと思うようにしています。
一例の利用者がどのような施設におられたかはわかりませんが貴方のホームでようやく穏やかに過ごせるようになれた事は本当に良い事だと思います。
他施設では、偏ったアセスメントでケアされ生きにくかったかと、不快感に苛まされていたでしょうね。

RE:RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

今回の方の事例は、「たまたま」上手くいったケースかもしれません。また、前の施設の方の苦労の上に、今の状態はあると考えています。
 「記録」には、様々な考え方があり、業務として行う上では職場のルール等もある。また、「記録は記録、利用者の捉え方は捉え方」という考え方もあるでしょう。
 しかしながら、「言葉」によって「捉え方」が狭められてしまう可能性は、あると思います。例えば、「ベッドサイドのテーブルに濡れたパッドが置いてあった」場合、それを「テーブル上にパッドが置いてあった」と「書く」のと、「不潔行為有り」とするのでは、大きな違いがあります。「不潔なパッドを、(清潔なものを置く)テーブルに置いた」とすれば、確かに、「不潔行為」かも知れません。しかし、「濡れたバッドが気持ち悪かった。それを外して近くの台に置いた、それがたまたまテーブルだった」としたら、むしろそれはある意味「当然」の行為であり、「清潔行為」と言えるでしょう。「短くまとめる」「業界用語」は、確かに便利で、一見もっともらしい。しかし、それにより多くの「かもしれない?」が見落とされてしまう危険性をはらんでいます。
 

RE:RE:RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

かもしれない‥は、憶測でしかありません。

この事例で言うと、テーブルにパットがあったという事だけが
事実なわけではない‥ですよね?

パットがある→この方は今パットをつけていないかもしれない!
トイレに誘導する。または話を聞くなどアクションを起こす→
それに対する反応や、実際のパットの状況など対応の結果。

その行為の前の排泄の時間や発見時の様子‥

書くべき事実はたくさんあり、そこから推測することも可能です。
かもしれない。の可能性は記録からではなく
それに当たったケースワーカーから話を聞くなりして
発見できるのではないでしょうか?

当たり前の行為だったとしても、テーブルにパットがあれは
それは決して清潔ではありません。
その行為が、次に起こらないためにどう援助するか?
スタッフ間の事実と意識の共有、コミュニケーションが大切ですよね!

介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

返信ありがとうございます。私も「憶測」は良くないと思います。だからこそ、「不潔行為あり」という記録ではなく。例えば、「Aさんのベッドサードのテーブルに、濡れたパッドが置いてあった」というように、見た状況を具体的に書くことが大切だと思います。
「かもしれない」が大切だと書いたのは、多くの「かもしれない」を見出すことで、初めて御本人の立場に立った介護ができると、考えるからです。「当然」も、「御本人の立場から」という意味です。

RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

「清潔行為」という言葉を持ち出しだのは、その行為が「不潔」でないからではありません。確かに、今回の事例は「不潔」でしょう。しかしながら、もしもそのことを「不潔行為有り」とすると、「パッドが濡れていて気持ち悪かった」(御本人の不快)、「濡れたパットを取り除く力がある」(御本人の力)等は、見えず「不潔」のみがクローズアップされてしまう危険性があると考えたからです。
チームアプローチのためにも、具体的な記録は大切です。しかしながら、その「具体性」は、「徘徊」「不潔行為」「弄便」「いじっている」「遊んでいる」の中にあるのではないと考えます。

RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

トロッコさんの真意が私に伝わらなかったように
私の真意もトロッコさんには伝わっていないように感じます。
(全然考え方が違う!と言う意味ではありません。利用者本意についての方向性は同じだと思います!)

言葉だけのやり取りだと、受け取る側によって捉え方が違ってくる事があり
思考の相違に繋がりかねませんよね。
利用者目線に立ち、利用者本位でたくさんの「かもしれない」を見つけることは
事実に基づく、簡潔かつ的確な記録の上でスタッフ間の意見交換など
非言語的コミュニケーションの中で見つけていくのではないでしょうか。

私は、あくまで『記録』と言う意味で意見を述べさせていただいています。
おそらく、トロッコさんの見解と大差は無いと思います。
有意義な意見交換、ありがとうございました。

介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

 不快な思いをさせてしまい。申し訳ありません。私も誤解していました。「徘徊」「不潔行為」「弄便」等は、その「本来」の意味とは別に、業務を行う上での共通用語、ある意味では「記号」のような意味があると思います。
 その「記号」が、「目的もなく歩く」「便で遊んでいる」というように、「御本人」の立場からは「遠い」言葉になっているのには、認知症介護の歴史が大きく関っていると考えます。「精神分裂病」が「統合失調症」に、「精神薄弱者」が「知的障害者」に、「痴呆」が「認知症」へと呼び名が変わりました。「精神分裂」「精神薄弱」「痴呆」は、御本人や家族の方にとっては、ひどい表現ですが、以前は「当たり前」に使われてきました。
 現在では、「徘徊」「不潔行為」「弄便」等は、ご本人の立場に立てば「当然」の「理由」があるという考えになっています。しかし、かつてはそうではなく、「問題行動」だけを見て、それを抑えようとする「ケア」が行われていました。「つなぎ服」は当たり前のように使われていましたし、「静養室」という名の「独房」も存在しました(今もどこかにあるかもしれませんが)。
 そのような視点に立つ時、「徘徊」等の表現は、望ましくないと考えました。本来であれば、もっと御本人の立場に立った表現があればいいと思います。

RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

 介護記録は、スタッフ、関係者間の「業務」上の連絡事項やケアプランを実施した記録等の他に、文字通り、「その人」にとっての「記録」という意味もあると考えます。例えば、90歳の方が、ホームに入居し5年生活され亡くなられた場合、その5年間の生活の記録は、「介護記録」です。いわば、記録は、御本人にとっては「日記」でもあります。しかもそれは、その人にとって、最後の5年間・・・。その中に、「徘徊」「弄便」「帰宅願望」等が書かれていたら。もしも、自分だったら、悲しくなります。そんなことはしていない。家に帰りたくて必死に主張して、何が悪い。と言いたくなります(最もそれまで長生きできるとは分かりませんが)。
 例えば、「骨折」と書いてあった場合には、「骨が折れたんだな、痛いだろう、大変だろう」と考えますし、「風邪」とあれば、「疲れていたのかな。ゆっくり休んで」の一言くらいかけたくなります。しかし、利用者が鏡に向かって映った自分と話している状態は「鏡面現象」と書かれるかもしれません。また「問題行動」と聞いた場合、大方の人は、御本人の悔しさ、悲しさ、「失敗」、不安感等を、浮かべることができるでしょうか?
「徘徊」が、「骨折」や「風邪」と同じように(編見等が無く)、使われる状態であれば、私も「徘徊」と書くでしょう。

RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

トロッコさん自身が『徘徊』と言う言葉に偏見をお持ちなのですね。

私は、言葉に拘りはありませんので徘徊と書かなくても良いと思ってます。

徘徊は介護者が利用者を放っておくから徘徊(目的もなく歩き回る)になるのではないでしょうか?
こう話しかけるとこう反応があった。とか
話しかけて反応はなかったが、壁の絵を見ていた。
廊下の観葉植物を触っていた。など記録できますよね?
鏡に話しかけていたら、相手は誰なのか?話の内容は?

『徘徊』『鏡現象』と一言で片づけるのは、介護者の観察力不足、スキル不足
気づきのなさが原因でしょうね。

介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

 返信、ありがとうございます。自分の主張したかったのは、そのことです。具体的に書くことにより、その方の様子や、持っている力、行動の裏にある真意等も、記録されると考えます。
 利用者の行動を「徘徊」と名づけたのは、認知症に対する研究、知識、技術が不十分であり、「目的も無く歩いている」ように見えた「時代」の名残だと、考えます。また、介護者が「余裕」有る時や「都合の良い」時は「散歩」や「運動」であったものが、そうでない場合に「徘徊」とされる事もあるでしょう。
 利用者のある状態を「目的もなく」としている状況は、今でもあると思います。そういった意味で、「徘徊」が介護者に注意喚起する用語であって欲しいです。それは「弄便」や「鏡現象」も同様です。
 

RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

 「問題行動」と言われ、「唖然」としてしまった病院では、今でも普通にミトン手袋を使い、腕等も縛っています。利用者が転倒骨折した時には、頼んでもいないのに大きなジョクソウを造られました。スタッフが病院まで行ってボランティアで食事介助をし、今ではその方は、退院されています。今考えると、「問題行動」の言葉にも、ある意味納得が行きます。
 「転居させる予定」「~と言いふらしている」「目を離したスキに、クリームを口に入れた」と書いてあった施設。もしも、現場のスタッフがそのように考えていたとしたら、施設都合の「ケア」が行われていると、言えると思います。
 

RE:RE:介護記録について 「徘徊」「帰宅願望」「いじる」

「徘徊」と記録しつつ(おそらくその場合は、「認知能力、判断能力、運動機能等が低下しているため、何か周りからのサポートがないと事故等になる状態」のような意味でしょうが)、利用者の「出来ること」「力」に着目し、ケアしている施設と、一方で利用者を一様に「~様」と呼んで敬語を使いながら、ただ1日中TVを見て過ごさせ、「TVを興味深げに見ておられました」と記録している施設があるとすれば、もちろん自分も前者の施設の方が良いと思います。

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